赤穂浪士
 街歩きをしているうちに赤穂浪士関係の史跡もいろいろ見かけています。
 そこで、これまでに見た史跡をまとめることにし、時間軸にそって並べました。
 赤穂浪士については詳しく知らないのでインタネットで調べたのですが、誤りもあるかもしれません。
 
松の大廊下跡
 所在地  千代田区千代田1-1 皇居東御苑
 撮影日  2011年2月27日
   元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件発生現場。
 ここから、「忠臣蔵」の美談が始まりました。
 
説明板の文  「松の大廊下跡
 赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(1701年「元禄14年」)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれます。江戸城で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。」
   
 吉良邸跡
 所在地  墨田区両国三丁目13−9 本所松坂町公園
 撮影日  2011年2月15日 
   元禄15年(1702年)12月14日、大石良雄ら赤穂浪士四十七人によって討ち入りが決行された現場。
現在は、その一部が本所松坂町公園として管理されています。
 
説明板の文  「忠臣蔵:吉良邸跡
 吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は約2550壺(約8400平方メートル)だったとされています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎません。
 吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刀傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に新邸を与えています。討ち入りは翌元禄15年12月14日ですから、1年半に満たない居住でした。
 園内には、吉良上野介の首を洗った井戸を再現したり、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。」
(公園内の高札から)
 
赤穂浪士・大高源吾の句碑
所在地  墨田区両国1丁目11
撮影日  2010年4月13日
   両国橋の東詰・南側に、 向島の俳諧師宝井其角の弟子であった赤穂浪士・大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句碑があります。
 この句は本懐を遂げた後、詠んだ句と言われています。
 講談などで、両国橋の袂で大高源五と宝井其角が出会って俳句を読み合う場面があることから、ここに碑が立てられたのでしょうか。
 
   
赤穂浪士休息の地(両国)
所在地  墨田区両国1丁目11
撮影日  2010年11月27日
    旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの所に架っていました。明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架けられ、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。
 討ち入り後、浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺への向かう前に赤穂浪士は、上杉家の追手を気にしつつ広小路で休息したようです。
 
説明板の文  「忠臣蔵:赤穂浪士休息の地
 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。
 赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き上げ前に休息した場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して泉岳寺へと引き上げました。
 ぶらり両国街かど展委員会」 
赤穂義士休息の地碑
 所在地  江東区佐賀1丁目6-2
 撮影日  2011年5月4日
   泉岳寺へ向かうため、隅田川沿いに一之橋、萬年橋を通って永代橋まで来ると、一同は休憩を取りました。永代橋の東詰には、大高源五と同じ宝井其角の弟子・竹口作兵衛が主人の乳熊屋味噌店があり、甘酒粥を振る舞い労をねぎらったそうです。
 碑は乳熊ビルの敷地内に建っています。
 
赤穂義士休息の地碑

永代橋
碑文  「赤穂義士休息の地
赤穂四十七士の一人大高源五子葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角の門下として俳界の友でありました。元禄十五年十二月十四日討入本懐を遂げた義士達が、永代橋へ差し掛るや、あたかも当所乳熊屋味噌店上棟の日に当り、作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を犒らったのであります。大高源五は棟木に由来を認め、又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。
昭和38年2月 ちくま味噌十六代 竹口作兵衛識」
   
堀部安兵衛武庸の碑
所在地   中央区八丁堀1丁目14
撮影日  2010年4月18日
  赤穂浪士一行は永代橋を渡ると豊海橋を通って霊巌島に入り、迂回するように亀島川沿いに南下したのち高橋、稲荷橋を渡って、鉄砲洲に入りました。

 その途中の亀島橋の西詰北側には、昭和44年八丁堀一丁目町会によって碑が建立された「堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえ・たけつね)の碑」があります。碑文によると、赤穂浪士・堀部安兵衛は、高田の馬場の仇討ちの後、亀島川の西側、現・八丁堀1丁目に住んでいたそうです。
   
   
浅野内匠頭邸跡 
所在地  中央区明石町10
撮影日  2010年7月4日
   鉄砲州には、かって赤穂藩上屋敷がありました。
 一行は、討ち入りの時は小浜藩の屋敷になっていた旧赤穂藩上屋敷付近を通って、築地本願寺横を抜け汐留橋に向かいました。
 現在の聖路加国際病院の周辺が上屋敷のあったところで、聖路加看護大学の西側に碑が建っています。
 
都旧跡 浅野内匠頭邸跡碑
説明板の文 「浅野内匠頭邸跡(都指定 昭和6年6月)
所在地 中央区明石町10、11地域
 常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610〜72)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、5万3500石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して5万石となります。
 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯8900余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665〜1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されましたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。
平成7年3月 中央区教育委員会」
   
 義士洗足の井戸
所在地  港区虎ノ門2丁目9-16
撮影日  2010年5月22日
   汐留橋にかかるころ、大石良雄は二名を大目付・仙石伯耆守の屋敷に報告させに行かせました。
 その際に両名の義士は邸内の井戸で洗足して座敷にあがったという史実をもとに作った”井戸”が、仙石伯耆守の屋敷のあった付近に建つ虎ノ門のニッショーホール(消防会館)1Fにあります。
   
説明板の文  「義士洗足の井戸
元禄のころ、このあたりに大目付、仙石伯耆守の屋敷があった。大目付とは老中の配下にあって政務を監督し、諸大名の行動を監視した役職である。
 元禄十五年(1702)十二月十五日朝、大石良雄以下四十七名の赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、主君浅野内匠頭の無念を晴らし武士の本懐を遂げた。
 吉良邸を引きあげて芝泉岳寺にある主君の墓前に向かう途中、大石良雄は部下二名の者を仙石伯耆守邸に差し向け自首させた。その際に両名の義士は邸内の井戸で洗足して座敷にあがったと言う。
 この史実をもとにこの井戸を作り、後世にあまねく伝承するものである。
昭和56年11月吉日  財団法人 日本消防協会」
   
 泉岳寺
所在地   港区高輪二丁目11-1
撮影日  2010年5月16日
   浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺に入った赤穂浪士は、墓前にぬかづき仇討ちの本懐を遂げたことを報告。
 12月15日夕刻、一同は泉岳寺から大目付の屋敷に移され、御徒目付による取り調べの後大名4家にお預けが言い渡されました。
その後処分が決まり、元禄16年(1703)2月4日、預けられていた各大名家で赤穂浪士46人は切腹、泉岳寺に葬られました。
 切腹したのが46人なのは、討ち入り後から泉岳寺着くまでの間に寺坂信行が姿を消しているためで、許可を得ての離脱説と逃亡説とがあって、逃亡説では”四十七士”ではなく”四十六士”と呼んでいます。 
 
泉岳寺山門
 
大石内蔵助良雄銅像
   
大石良雄ほか16人忠烈の跡
所在地  港区高輪1丁目16
撮影日  2010年5月16日
   赤穂浪士のうち大石良雄ら17人は、肥後熊本藩細川越中守下屋敷に預けられたのち切腹しました。

 細川越中守下屋敷のあった所は港区高輪1丁目4、6〜16付近で、都営高輪アパートの北側に「東京都指定旧跡 大石良雄他十六人忠烈の跡」があります。
また、近くには、東京都指定天然記念物 旧細川邸のシイも残っています。
 
説明板の文  「東京都指定旧跡 大石良雄外十六人忠烈の跡
 所在地:港区高輪一丁目四、六〜十六
 指定:大正七年 四月
この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(1701)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利(つなよし)は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(ろうじゅういなばたんごのかみまさゆき)(下総佐倉藩主)から大石内蔵助良雄外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕籠と予備として五挺の駕籠を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚(せんごくほうきのかみひさなお)の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川綱利は、大藩の威力と識見を以って優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
 元禄十六年(1703)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十座左衛門政羽(まさは)と御使番久永内記信豊(ひさながないきのぶとよ)から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿の大風呂敷を覆べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介は安場一平(子孫は明治維新に功有り男爵を授けられた)の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。
平成十年三月  東京都教育委員会」
   
   2011年5月14日作成
inserted by FC2 system