江戸の馬場を巡る5
 榛馬場  十番馬場  高田馬場  
 
榛(はんのき)馬場
2011年2月15日撮影
所在地:墨田区両国4丁目33~36付近

東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので、「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていた「榛稲荷神社」は今も残っています。

馬場跡
榛稲荷神社
馬場があったことにちなんでか、馬の札?が飾られていました。

またここは葛飾北斎住居跡の1つで、説明板が立っています。

「葛飾北斎住居跡
 所在地 墨田区両国4丁目34番地付近
 この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約185m、南北約22mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛(はんのき)があったので、「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。
 本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は90歳で没するまで常に新しい技法を試み、「冨獄三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
 榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄(おえい)が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(『葛飾北斎伝』)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、80歳を超えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。
 北斎は生涯で90回以上も転居を繰り返したとされていますが、場所のすべてが正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。
 また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言(むすいどくげん)」の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
平成21年3月 墨田区教育委員会」
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 十番馬場
 2011年2月23日撮影
 所在地:港区東麻布3丁目7~8付近

十番馬場は一ノ橋の北にありました。
麻布十番町は今は一ノ橋の南西側になりますが、江戸切絵図(東都麻布之絵図)では一ノ橋の北に「此辺十番ト云」と書かれています。

麻布は、もともと「阿佐布」、「安座部」といわれた集落で、麻を栽培し、布を織っていたことから「麻布」という漢字が使われるようになり、江戸時代、明暦の大火後の救済事業の一環として古川の改修工事を実施した際、改修工事の十番目の工区にあたるので、麻布十番となった、と言われているそうです。
古川は一の橋の所で大きく曲がっていて荷揚げ場を作るのに適していたため、商品の集積場となりました。
享保14年(1729 )には、芝にあった馬場が一の橋に移転してきて、十番馬場と呼ばれました。馬市も立ち仙台駒の取引が行われるようになると馬方の宿や茶屋もできはじめ、古くから麻布山善福寺の門前町として賑わっていたこともあって、麻布十番は発展していったようです。 
 現在の十番馬場跡。右側が馬場のあった東麻布3丁目7~8付近。
 
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 高田馬場
 
 所在地:新宿区西早稲田3丁目1・2・12・14番付近

高田馬場は、三代将軍家光が寛永13年(1636)に旗本たちの馬揃えや馬術の練習のために築かせました。東西約650m、南北約55mあり、外側では馬術の練習、内側では弓の練習に使われていました。
 また、ここでは、歴代の将軍が一代に一度ずつ、穴八幡神社に流鏑馬の神事が奉納されていました。

赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が叔父の決闘の助太刀をして名を挙げた所でもあります。
 
 西早稲田交差点の八幡寿司の壁面に説明板があります。
「旧跡 高田馬場跡
 所在地 新宿区西早稲田3丁目1・2・12・14番

 西早稲田3丁目1・2・12・14番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。
 馬場は寛永13年(1636)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、八軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っている。

平成3年11月 東京都新宿区教育委員会
 一つ隣の通り(茶屋町通り)にも同じ説明板がありました。左側が西早稲田3丁目1番。

 左側が馬場のあった西早稲田3丁目1番、2番、12番、14番。
   歌川広重 名所江戸百景 第115景「高田の馬場」

白い丸いものは、大きな輪に皮を張った弓の練習用の的。矢尻は布でくるんで皮が破れないようにしてあったそうです。
 流鏑馬の神事が奉納されていた、穴八幡神社境内。
 穴八幡神社参道前には流鏑馬像が立っています。

「新宿区指定無形民俗文化財
高田馬場の流鏑馬
所在地 新宿区西早稲田2丁目1番11号(穴八幡神社内)
指定年月日 昭和63年3月4日
 享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
 明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和39年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年10月10日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
 古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。
平成4年8月 東京都新宿区教育委員会」
水稲荷神社境内に立つ「堀部武庸加功遺跡之碑」

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 2011年4月1日作成
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