名所江戸百景を歩く 第1景〜第10景
   
第1景 「日本橋雪晴」
   撮影地:中央区日本橋室町1丁目

 第1景「日本橋雪晴」は、日本橋の北詰め、魚河岸の上空からの俯瞰図です。
 今は魚河岸はありませんが、「日本橋魚市場発祥の地」碑が北詰にあります。

 上空からは無理なので、北側の少し下流側にいった駐車場から。
 ちょうどこの頃日本橋クリーニングプロジェクトでのケルヒャージャパンによる日本橋洗浄をしており、下流側の囲いを 撤去していました。
     2010年12月11日撮影
   
 第2景 「霞がせき」
 
  撮影地:千代田区霞が関2丁目

 霞が関坂の坂上から。中央で撮りたかったのですが、車は少ないものの場所柄あまり無理はできないので、こんなところで良しとしました。
 絵で右手にあるのが松平美濃守の屋敷、左手にあるのが松平安芸守の上屋敷。今は右手が外務省、左手が国土交通省と合同庁舎2号館です。
   2010年8月4日撮影
   
第3景 「山下町日比谷外さくら田」
 
  撮影地:千代田区内幸町1丁目

山下町から西側、日比谷方向を描いた作品。外堀が今の日生劇場の辺りで右に曲がっていて、松平肥前守の屋敷(現日比谷公園の日比谷門あたり)が奥に見えています。ただ、山下町は山下御門外なので実際には手前に門があるのですが描かれていません。

帝国ホテル前の「この附近の江戸時代の地図」から。現在の地図と重ねて表示されています 

本当は中央区の泰明小学校近くからなのですが、山下御門のあった付近には今はJRの高架橋(山下橋)があって邪魔なので、高架橋を背にして撮りました。
    2010年6月15日撮影
   
第4景 「永代橋佃しま」
  
  撮影地: 中央区日本橋箱崎町 隅田川テラスから

永代橋の下から下流の佃島を望んで夜の白魚漁を描いた作品。永代橋は元禄11年(1698)架橋、江戸時代は今の位置より100mほど上流にあり、箱崎と深川の佐賀町を結んでいました。
今の永代橋は、震災復興事業として大正15年(1926)竣工。勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定されています。

永代橋の上から佃島の方向を望んで・
 2010年8月11日撮影
   
第5景 「両ごく回向院元柳橋」
 
  撮影地:墨田区両国1丁目11 隅田川テラスから

本来なら回向院から西方向、薬研堀に架っていた元柳橋を望む景色なのですが、今では回向院からの景色は無理です。隅田川テラスに出て元柳橋のあった付近を撮ったのですが、薬研堀があったのは日本橋中の南側付近のようなのでもう少し南でした。

回向院

明暦3年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、その多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍家綱はこうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に『無縁塚』を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。
 遊縁・無縁、人・動物にも関わらず、生あるすべてのものへの仏への慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
ぶらり両国街かど展実行委員会」
    2010年7月8日撮影
   
 第6景 「馬喰町初音の馬場」
   撮影地: 千代田区日本橋馬喰町1丁目9・14付近

右側が馬場のあった日本橋馬喰町1丁目9・14。
 現在は問屋街の一角となって馬場があった形跡は、説明板も含めまったくありません。
近くにあった初音稲荷にちなんで初音の馬場と呼ばれ、関ヶ原の戦いの時、徳川家康がここで馬揃えをして戦勝を祈ったそうです。

現在の初音稲荷(初音森神社)

初音森神社の創建は元弘年間(1331〜34)で、文明年間(1469〜86)に太田道灌により社殿が建てられました。当時の鎮座地は、初音の里と呼ばれていた現在の場所あたりで、初音稲荷と称していたそうです。
天文20年(1551)社前に馬場ができましたが、初音稲荷にちなんで初音の馬場と呼ばれ、初午祭などには馬追などが行われたとのこと。
その後、浅草見附門の建設のために境内地の半分が削られ、さらに明暦の大火の後郡代屋敷建設のために、墨田区千歳へ遷座しました。昭和23年(1948)に旧・初音の里に神社を建立、昭和48年(1973)にはビルになり、本殿は墨田区にありますが、神殿・儀式殿はここにある形になりました。
    2010年6月24日撮影
   
第7景 「大てんま町木綿店」
 
  撮影地: 中央区日本橋大伝馬町1・2付近

 平成22年4月30日で閉館したホテル・ギンモンド東京の脇に「旧日光街道大通り」の碑があります。

側面には
「徳川家康公江戸開府に際し御傳馬役支配であつた馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された」
「江戸名所図会や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は、将軍御成道として繁華な本街道であり木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた」
と記されています。
 第7景「大てんま町木綿店」は、ここという場所が判らなかったので、このの碑文を根拠に、この通りで撮影しました。
   2010年7月24日撮影
   
 第8景 「する賀てふ」
 
  撮影地: 中央区日本橋室町1丁目と2丁目の間

日本橋の南北の町屋は、江戸城と富士山が望めるように作られていました。駿河町では通りに立つと真正面に富士山を見ることができ、町名もこの眺めから付けられました。
描かれている左右の商家は三井高利の開いた呉服店越後屋ですが、今は名称変わって右は三井本館、左は三越本店です。
   2010年7月20日撮影
   
 第9景 「筋違内八ツ小路」
 
   撮影地:千代田区神田淡路町2丁目12付近 

 絵の中で、右上にあるのは神田明神、その下は銭形平次の住んでいた神田明神下の町です。
手前の土手は柳原土手で、土手の途切れているところに架かっているのは昌平橋です。筋違御門は絵の右手外にあります。手前の大名行列はどこかに行こうとしていますが、この人たちは筋違御門から入ってきたところのようです。
 当時は見附門内に八つ小路という広場があったのですが、今はビルが立ち並びこのような広々とした空間を撮ることはできませんでした。
    2010年6月17日撮影
   
 第10景 「神田明神曙之景」
 
  撮影地: 台東区外神田2丁目 神田明神境内

儀式を終えた神官・巫女・下男が、東の空が明るくなるのを見つめているところを描いたもののようです。
神田明神境内の東側には男坂がありますが、その説明板には
「明神男坂
この坂を明神男坂といいます。明神石坂とも呼ばれます。『神田文化史』には「天保の初年当時神田の町火消『い』『よ』『は』『萬』の四組が石坂を明神へ献納した」と男坂の由来が記されています。この坂の脇にあった大銀杏(おおいちょう)は、安房上総辺から江戸へやってくる漁船の目標になったという話や、坂からの眺めがよいため毎年1月と7月の26日に夜待ち(観月)が行われたことでも有名です。
平成8年3月 千代田区教育委員会」
とあり、境内からの東の眺めは良かったようです。
   2010年9月9日撮影
   
 
   
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