渡し船碑
これまで川沿いを歩いたとき、たまに渡し船の碑や説明板を見かけていました。今回隅田川を上流から下流まで歩いている間に、見かけた碑・説明板の数が多くなったのでまとめることにしました。
 
 隅田川の渡し
宮堀の渡し
未撮影  現在の新神谷橋近にあったもの。北区の宮堀児童遊園内に説明板が設置され、王子神谷駅付近の北本通り沿いの「産業考古学探索路」碑においても記載があるそうです。 
     
梶原の渡し
場所  東京都北区堀船4丁目2 北区立白山堀公園 
撮影日  2011年1月30日 
   JR尾久駅の北、白山堀公園の隅田川テラスへ出た所に説明板があります。
説明板には”現在のキリンビール東京工場敷地”とありますが、今は読売新聞東京北工場、日本製紙物流堀船営業所、日刊スポーツ印刷社王子工場が建っています。 
 
左側にあるのが説明板

説明板
説明板
の文章
 「梶原の渡船場跡
 北区堀船4-2 北区立白山堀公園
 この奥の隅田川沿いには、明治・大正・昭和にかけて、対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場がありました。
 明治41年(1908)、現在のキリンビール東京工場の敷地に下野紡績の工場ができ、対岸からも人々が工場へ通勤するようになりました。そこで、両岸の梶原・宮城地区の住民有志が出資してつくった船の発着場が、この梶原の渡船場です。
 子供の頃から父親とともに、船頭をしていた方の話によると、最初、運賃は大人一銭・子供五厘・荷車一銭五厘・自転車一銭だったそうで、この渡しができたことで、地域の住民の交通の便が非常に良くなりました。また、荷車という運賃があるように、駒込にあった市場に野菜を出すための交通路としても利用され、毎日15台以上が隅田川を船で往復していたそうです。
 第2次世界大戦中には、足立方面などに軍需工場が多くなり、工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混雑したそうですが、交通手段の整備とともに、渡しが使われることも少なくなり、昭和36年(1961), その姿を消しました。
平成8年3月  東京都北区教育委員会」
 
     
小台の渡し
未撮影  小台橋のたもとに荒川区教育委員会の説明板が建っているそうです。 
     
     
熊野の渡し
場所  東京都荒川区東尾久8丁目 尾久橋南詰 
 撮影日  2011年1月30日  
   尾久橋の南側、階段を降りたところに手すりと柵とに挟まれるようにして説明板があります。 
大正中期から昭和にかけて利用されていた渡し船で、関東大震災後の都市復興事業により下流に尾竹橋, 上流に小台橋ができて徐々に利用客が減少したものの, 戦後1950(昭和25)年まで利用されていました。
 
説明板

尾久橋
 説明板
の文章
 「これより北に約50メートル
熊野の渡し
東尾久8丁目と足立区小台1丁目を結んだこの渡しは、昭和25年3月まで近隣の住民に親しまれ利用されていた。
荒川区教育委員会」
 
   
新渡し
 場所  東京都荒川区町屋5丁目
 撮影日  2011年2月26日
   尾竹橋の南側の都道459号を隅田川を上流側に500メートルほど進んだ町屋5丁目と6丁目の境界近く、徳岡商会という会社の向かい側に立っています。 
明治後期から昭和前期にかけて、足立区西新井方面への渡しとして多くの人々に利用されていました。
下流側にあった尾竹の渡しに対し、新たに設けられたので新渡しと称したそうです。
 
説明板
 
説明板
の文章
 「新渡し
 現在の町屋5丁目と6丁目の境付近から足立区千住桜木2丁目との間を結んでいた。明治30年の里道の巡視報告書に既に記載されており, 明治後期ころから昭和前期にかけて、足立区西新井方面への渡しとして多くの人々に利用された。東方にあったお竹の渡しに対して、新たに設けられたので新渡しと称したという。
 昭和9年に尾竹橋が架橋され、次第に衰徴し廃止された。
 荒川区教育委員会」
     
お茶屋の渡し(お竹の渡し)
 場所  東京都荒川区町屋7丁目17-6
 撮影日  2011年2月26日
   尾竹橋の下流、隅田川が大きく蛇行している先端にある尾竹橋公園に立っています。公園の隅田川側は柵でカミソリ堤防と仕切られていて、川沿いには近づけなくなっています。
 付近に「富士見屋」「柳屋」「大黒屋」という 三軒の茶屋があったためお茶屋の渡しと呼ばれ、「尾竹」の名も「お竹」という茶屋の看板娘から名付けられたと言われています。天保年間に開設され、昭和9年尾竹橋架橋後もしばらく残っていました。
 
尾竹橋公園

説明板
説明板
の文章
 「お茶屋の渡し(お竹の渡し)
 ここから南へ約70メートル行ったところに、町屋と足立区千住桜木1丁目を結ぶ渡しがあった。対岸の足立区側の渡し場の脇に三軒の茶屋があったことからこの名がつけられたといわれる。別名をお竹の渡し。茶屋に「おたけさん」という名の女性がいたためにそう呼ばれたという。
 この渡しは天保年間(1830〜44)にはじめられたと伝え、千住・西新井方面へ向かう交通路として重要な役割をはたした。昭和9年にこの渡しから少し上流に尾竹橋が架けられた後もしばらくは渡しが残っていた。
荒川区教育委員会」
 
     
 一本松の渡し
 場所  東京都荒川区町屋8丁目21-13
 撮影日  2011年2月26日 
   京成本線町屋-千住大橋間の鉄橋から300メートルほど上流に架っている上水千住水管橋の西側、町屋グリーンマンションの前に立っています(町屋ひろば館北交差点の東)。
 いつ頃からいつ頃まであったのは不明です。
 
左手奥にあるのが上水千住水管橋

説明板
説明板
の文章
 「一本松の渡し
 この渡しは、現在の足立区千住緑町との間、約140メートルの距離を結ぶ。両岸の人々の暮しに欠かせない重要な交通手段であった。
 渡しの名は、町屋1丁目の庚申塚の上に立つ一本松に由来する。
 ここから東へ60mほど行ったところが渡し場だった。
 荒川区教育委員会
」 
     
橋場の渡し
場所  東京都荒川区南千住3丁目 白鬚橋西詰
撮影日  2010年11月3日 
   白鬚橋の西詰交差点の北東側に説明板があります。
 記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い渡しで、渡しの位置の変わっていてはっきりしていません。
 伊勢物語で在原業平が渡ったのもこの渡しとされています。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、隅田川に最初に「船橋」を賭けたのもこの場所で、「橋場」という名が残ったとも伝えられています。
  橋場は江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭なども多く華族や文人などが出入りしていました。明治期に入ってからも屋敷が建ち並び、三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にありました。歌川広重も名所江戸百景「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いています。
 白鬚橋が架けられ、大正期に廃止されました。
 
白鬚橋西詰

説明板
 
白鬚橋
 
説明板
の文章
 「これより東へ約20メートル
 橋場の渡し
 対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。
 『江戸名所図会』によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。
 大正3年(1914)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。
荒川区教育委員会」 
     
竹屋の渡し
場所   東京都台東区浅草7丁目 台東区スポーツセンター広場
撮影日  2010年6月10日 
 待乳山聖天の東にある台東区スポーツセンター広場に立っています。
 「向島の渡し」とも、待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称されました。
 文政年間(1818年- )頃には運行されていて、現在の言問橋のやや上流で、山谷堀から 向島三囲(みめぐり)神社(向島二丁目)の間を渡していました。1933年(昭和8年)の言問橋架橋に伴い廃止されました。
 
竹屋の渡し碑
 
説明板
の文
「竹屋の渡し跡    台東区浅草7丁目1番 隅田公園
 隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷堀口から向島三囲神社 (墨田区向島2丁目) の前あたりを結んでいた。明治40年刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き『待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云』と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳の渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。
「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間 (1818〜1830) の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を模写したものも少なくない。
 昭和3年言問橋の架橋にともない、渡し舟は廃止された。
平成14年3月  台東区教育委員会 」 
     
  山の宿(やまのしゅく)の渡し
場所  東京都台東区花川戸1丁目1
撮影日  2011年4月10日/2011年5月21日取り直し。
   東武鉄道隅田川橋梁の北側、隅田公園内に碑があります。
 渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれたことから「山の宿の渡し」と呼ばれました。江戸中期には運行されていたみられ、浅草寺への参拝客や墨堤の花見客などで賑わいました。
 
山の宿の渡し

説明板
説明板
の文 
「山の宿の渡し
  台東区花川戸1丁目1番
 隅田川渡船の一つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、 隅田川に船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。
 渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって、江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。
平成4年11月  台東区教育委員会」

 
     
佃の渡し
場所  中央区湊3丁目18/佃1丁目11-4
撮影日  2010年7月4日(佃大橋西詰)/2010年8月6日(佃島) 
   佃大橋の西詰と佃島の佃渡し跡広場に碑があります。
 現在の佃大橋付近にあった渡しで、初めは佃島の漁民の私的な渡しでした。江戸時代も不定期に渡船が運行されていただけでした。
しかし明治なり、佃島や石川島、月島に造船所などができると交通機関として発展し、1964年(昭和39年)佃大橋架橋されるまで運行されていました。
 
佃大橋西詰の碑(湊3丁目18)

佃島側の碑(佃1丁目11-4)
 
昭和28年頃の佃島渡船

佃大橋
説明板
の文
「中央区民文化財 
佃島渡船場跡
所在地 中央区湊3丁目18番/佃1丁目11番4号
 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲(よりす)でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡しです。 
 明治9年(1876)には、渡し銭1人5厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡船」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
 昭和30年(1955)7月には一日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。
平成16年3月 中央区教育委員会」 
(佃大橋西詰に設置された説明板)
     
月島の渡し
場所  東京都中央区築地7丁目18/中央区月島3丁目24  
撮影日  2010年7月4日・2011年5月15日  
   明石町にあるあかつき公園の南角の交差点の南側に説明板があります。
 現在の築地7丁目18番と月島3丁目24を結んでいた渡しで、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が有料渡船を開始したことに始まります。
 昭和15年(1940)勝鬨橋が完成して利用者が減少して廃止されるまで大いに利用されていました。

 中央区月島の「わたし児童遊園」内にも説明板があります。(2011年5月15日撮影)
 
「わたし児童遊園」内の説明板
説明板
の文
「月島の渡し跡
  所在地 築地7丁目18番/明石町14番 地域
「月島の渡し」は、月島一号地の埋立が完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島三丁目24番)へ、手漕ぎの船で私設の有料渡船を開始したことに始まります。
 明治34年(1901)、月島への交通の重要性を考慮した東京市が渡船の市営化を決め、翌35年に汽船曳船2隻で交互運転を開始し、渡賃も無料となりました。明治44年には、臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡船も開始されました。
 月島の渡しの渡船場は、当初、明石橋橋詰の南飯田町にありましたが、東京市に移管されて運営が開始される明治35年以降は、明石町(現在の明石町14番)に渡船場を移設し、大いに利用されてきました。
 昭和15年(1940)に勝鬨橋が架橋されたことにより、渡船の運航に終止符が打たれましたが、明治から昭和にいたるまで住民や工場へ通う人々の重要な交通機関として活躍しました。
 月島の渡しは、月島工業地帯の発展、ひいては日本の近代化に寄与した渡船として語り継がれています。
平成20年3月 中央区教育委員会」 
     
勝鬨の渡し
場所  東京都中央区築地6丁目20  
撮影日  2010年7月4日  
   勝鬨橋の西詰にあります。
 明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に、「勝鬨の渡し」と名付けた、現在の波除稲荷神社の辺りと勝どき1・3丁目の境辺りを結ぶ渡船が運航されました。
 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
 その後、昭和15年(1940)の勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
 
勝鬨の渡し碑

勝鬨橋
説明板
の文
「勝鬨の渡し
所在地 中央区築地6丁目20番
 明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
 明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同志會」と陰刻されています。
 設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。
 勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。
 大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
 勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
平成16年3月 中央区教育委員会」 
     
 その他の渡し
鎧の渡し
 河川名  日本橋川
場所  東京都中央区日本橋兜町1
撮影日  2010年7月20日/2011年4月22日 
   日本橋兜町東京証券所の近く、兜橋の南詰にあります。
 鎧の渡しは、小網町と茅場町との間を結んでいた日本橋川の船渡しです。
 かってこの附近には大河があり、平安時代の永承年間(1046〜53)に源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあいました。その時鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを捧げたところ無事に渡ることができたことからここをを「鎧が淵」と呼んだといわれています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
 この渡しは、明治5年(1872)に鎧橋が架けられたことにより廃止されました。
 また、歌川広重が名所江戸百景 第46景「鎧の渡し小網町」でこの渡しを描いています。
 
説明板

日本橋川から見た説明板付近
説明板
の文
 「鎧の渡し跡
所在地 中央区 日本橋小網町8・9番/日本橋茅場町1丁目1番・日本橋兜町1番
 鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝7年(1679)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記載されています。
 伝説によると、かってこの附近には大河があり、平安時代の永承年間(1046〜53)に、源頼義が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだといわれています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。
 この渡しは、明治5年(1872)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は『江戸名所図会』などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。
 縁日に
    買うてぞ帰る
         おもだかも   
 逆さにうつる
    鎧のわたし 
         和朝亭国盛
平成20年3月 中央区教育委員会」 
     
羽田の渡し
河川名   多摩川 
場所  東京都羽田2丁目 多摩川沿い
撮影日  2010年8月21日 
   多摩川の河口近く、大師橋と高速大師橋の間の多摩川べりにあります。
 羽田の渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていました。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるのでこの渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑いをみせていたそうで、その後も多くの人に利用されましたが、昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止されました。
また、歌川広重が名所江戸百景 第72景「はねたのわたし弁天の社」でこの渡しを描いています。
 
羽田の渡し碑

多摩川にかかる高速大師線
説明板
の文
「羽田の渡し
古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は約40間(約80m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
 その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は、20〜30人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止して欲しいと公儀に願い出るほどの賑いをみせていたという。
 また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
大田区」  
     
逆井(さかさい)の渡し
河川名   旧中川  
場所  東京都江戸川区小松川2丁目 旧中川沿い  
撮影日  2010年6月5日  
江戸川区と江東区の間を流れる旧中川に架かる逆井橋の東詰にあります。
 江戸と房総をむすぶ元佐倉道にあった渡しで、本佐倉道は逆井の渡しを渡ると小岩で現在の江戸川を渡って佐倉、成田へ向かいました。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。
 逆井の渡し付近は風景も良く、歌川広重が名所江戸百景 第67景「逆井のわたし」で描いています。

説明板周辺

説明板
 
逆井橋と首都高7号小松川線
 
説明板
の文
「逆井(さかさい)の渡し跡
 中川をわたる逆井の渡しは『新編武蔵風土記稿』に「元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総をむすぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。
 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋、さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。
 江戸川区」
 
岩淵渡船場跡
 河川名  荒川  
 場所
東京都北区岩淵町41
 
 撮影日  2010年10月11日  
   地下鉄南北線赤羽岩淵駅から北へ約500m行ったところにある新荒川大橋の途中、荒川と新河岸川の間の土手に説明板はあります。  ここから1kmほど下流には隅田川の始点となる岩淵水門があります。
 説明板は、平成7年に設置したものにもかかわらず文字色が薄くなってほとんど読めません。印刷は日光が当たると紫外線で退色しやすいので、川からの反射光もあって色あせてしまったようです。
 
説明板周辺

荒川に架かる新荒川大橋
 説明板
の文
「岩淵渡船場跡
  岩淵町41番地
 このあたりに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向うための渡船場がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。
 渡船場は、奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合せて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。
 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用にわかれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ65間(約117m), 幅3間(約5.4m)です。
 一般の渡船場は、人用の船と馬用の船が1艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の3ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどでした。
 渡船場は、明治以降も利用され、明治38年(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3年(1928) 9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。
平成7年3月  東京都北区教育委員会」
     
   2011年5月11日作成 
     2011年5月28日 岩淵渡船場後跡追加
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