伊能忠敬・東京の史跡
江戸後期、50歳にして下総佐原村から江戸に出て天文学を勉強し、日本を歩きまわって実測で日本地図を完成させた伊能忠敬。その史跡は「伊能忠敬旧宅」はじめ千葉県佐原市周辺にありますが、東京にもいくつか関連した碑、像や説明板が立っています。
以下は私が都内を歩いた時に出会った伊能忠敬関連の史跡です。
 富岡八幡宮・伊能忠敬銅像  
 伊能忠敬住居跡  
 浅草天文台跡  
 地図御用所跡  
 高輪大木戸跡  
 伊能忠敬測地遺功表  
   
   
富岡八幡宮・伊能忠敬銅像
 2010年5月1日撮影
所在地:東京都江東区富岡1-20

伊能忠敬が遠国の地に測量に行く際は富岡八幡宮に参詣していたこともあり、2001年(平成13年)10月、測量開始200年を記念して、測量の旅への一歩を踏み出した姿を表した忠敬の銅像が建てられました。
伊能忠敬銅像
 近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳の時に江戸にでて、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていました。
  約200年前の寛政12年閏4月19日(陽暦では1800年6月11日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
 忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊納測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
 伊納測量開始200年にあたり「伊納ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。
  平成13年10月
        伊能忠敬銅像建立実行委員会

 富岡八幡宮・本殿
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伊能忠敬住居跡
  2010年5月1日撮影
 所在地:東京都江東区門前仲町1-18-3先

文化11年(1814)に八丁堀亀島町へ転居するまで、ここ深川黒江町に忠敬の住居がありました。

大江戸線門前仲町の西にあります。道路側からでないと何の碑だか分からないかもしれません。
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浅草天文台跡
 2011年3月6日撮影
所在地:東京都台東区浅草橋3-19〜26付近

天文台は、正式の名を「頒暦所御用屋敷」といい、
暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためにに観測を行う必要から天文台がありました。
 浅草天文台は、天文方高橋至時(よしとき)らが寛政の改歴に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいました。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとしました。

 
←葛飾北斎「鳥越の不二 「天文台跡      台東区浅草橋3丁目
 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21,22,23,24番地の全域及び19,25,26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は。司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782))、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6メートル、高さ約9.3メートルの築山の上に、約5.5メートル四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9メートルだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富獄百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時(よしとき)らが寛政の改歴に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(1811)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保十三年(1842)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」
         
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地図御用所跡
 2011年8月11日撮影
所在地:東京都中央区日本橋茅場町2-12付近

地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745-1818)の住居に設けられていました。
 文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作成するための地図御用所として利用されていました。
 忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(1821)門弟や天文方の下役らの手により「大日本沿海「輿地全図」が完成しました。
   地図御用所跡
 所在地:中央区日本橋茅場町2丁目12番付近
地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745-1818)の住居に設けられていました。
伊能忠敬は、51歳の時に下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。
寛政12年(1800)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降17年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約4万キロメートルにも及んだといいます。
 文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作成するための地図御用所として利用されていました。
 忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政4年(1821)門弟や天文方の下役らの手により「大日本沿海「輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が完成しました。
平成17年3月 中央区教育委員
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 高輪大木戸跡
 2010年5月16日撮影
 所在地:東京都港区高輪2-19

  高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源。江戸の南の入口として、道幅約6間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築いて夜は閉めて通行止とし、また、往来の客はここで旅装を改めまた江戸の送迎者もこの木入口までとされていました。
 伊能忠敬は東海道沿いの測量に際してはここを基点としてたそうです。
 史跡 高輪大木戸跡  
 所在地 港区高輪二丁目十九番 指定昭和三年二月七日 
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(1792)説など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保二年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5の29の16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
 京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側の幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史跡名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
平成5年3月31日 建設 東京都教育委員会
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伊能忠敬測地遺功表
 2010年5月22日撮影
所在地:東京都港区芝公園芝丸山古墳頂上

伊能忠敬の功績を顕彰して東京地学協会が立てたもの。
 明治22年に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されたものの戦災で失われ、昭和40年に現在のものが再建されたそうです。

それにしても、立てられているのは古墳の頂上の空き地で、周りは木々に囲まれていてさびしい所です。芝公園内にもっといい場所もあるだろうと思いますが。
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   2011年3月30日作成 
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