勝海舟・東京の史跡
 江戸時代末期、江戸城を無血開城の導き、明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍した勝海舟。
以下は私が都内で見た勝海舟関連の史跡です。まだこのほかにもいくつかあるようです。
 
 「勝海舟生誕之地」碑  
 勝海舟揺籃の地  
 勝海舟邸跡  
 「西郷南洲・勝海舟会見之地」碑  
 軍艦操練所跡  
 勝安房邸跡  
 四合(しあわせ)稲荷  
 勝海舟別邸(洗足軒)跡  
 勝海舟夫妻の墓  
 勝海舟銅像  
   
「勝海舟生誕之地」碑
2010年7月10日撮影
所在地:墨田区両国4-25-24 両国公園内

勝海舟は、文政6年(1823)1月30日、江戸本所亀沢町にある父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。幼名は麟太郎。
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 勝海舟揺籃の地
 2010年3月30日撮影
所在地:墨田区緑4-21-2

坂田建設(株)の前に『勝海舟揺籃の地』の標柱が建てられています。
他に区教育委員会の説明板など立っていません。

本所亀沢町の男谷家で7歳まで過ごしたあと、弘化3年(1846年)に赤坂田町に移る23歳までここ、本所入江町の旗本岡野孫一郎の敷地で過ごしたようです。
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勝海舟邸跡
2009年5月3日撮影
所在地:港区赤坂6-10-39

勝海舟が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧邸跡。
 文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせたのもこの場所です。

散策しているらしいおじさんが座り込んで文章を筆記していました。長い文章でなかなか終わりそうにないのでおじさんごと1枚撮りました。
勝海舟邸跡の記
 港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、3カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。
 長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。
 この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当初に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使のの外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。

 文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年3月には、高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の裏側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=まで行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に、一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞恵(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
 平成7年11月吉日
     ソフトタウン赤坂管理自治会
     撰文 伊波 新之介
     協賛 勝海舟顕彰会
     協力 港区郷土資料館
 
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「西郷南洲・勝海舟会見之地」碑
2010年5月16日撮影
所在地:港区芝5-33-8 第一田町ビル前

明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡のあった場所です。

”南州”は西郷隆盛の号。
西郷隆盛は名前を何度も変えていて、そのうえ、王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名(隆盛)を届けたため、隆盛と名乗ることになりました。
「吉之助」は西郷の最初の通称ですが、碑文の文字は西郷隆盛の字ではなく、,参議院議員で法相を務めたこともあった孫の西郷吉之助。
 台座部分
左:「対座する西郷と勝のレリーフ」、
 右:「高輪邉繪圖」
 中央:
「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内」

「この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
 現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

 こちらは裏側
 この碑が戦後間もない昭和29年4月3日 本芝町会15周年記念として建てられたことが分かります。

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軍艦操練所跡
2010年7月4日撮影
所在地:中央区築地6-20 築地6丁目交差点

軍艦操練所は江戸幕府が幕末に海軍士官養成のために設置した教育機関で、勝海舟も頭取をつとめました。
軍艦操練所跡
  所在地 中央区築地6丁目20番地域
 ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)4月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。
 万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)3月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
 設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置き、慶応2年7月には海軍所と改称されました。同年11月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。
平成21年3月  中央区教育委員会
 
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 勝安房邸跡
  所在地:港区赤坂6−6−14
  港区立赤坂子ども中高生プラザ

勝海舟が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷跡で、ここで『氷川清話』を執筆したりしながら余生を過ごしました。
  「史跡 勝安芳邸阯」と彫られた碑が建っています。明治維新後に改名した名前が安芳です。
 東京都指定 旧跡
 勝安房邸跡
 この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校になったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区
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四合(しあわせ)稲荷
所在地:港区赤坂6-10-12 氷川神社

赤坂・氷川神社の敷地内に祀られている『四合(しあわせ)稲荷』。古呂故(ころこ)稲荷・地頭(じぬし)稲荷・本氷川稲荷・玉川稲荷の四社を明治31年(1898年)に合祀した際、「四合(しあわせ)稲荷」と勝海舟が名付けました。
   
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 勝海舟別邸(洗足軒)跡
 2010年8月15日撮影
所在地:大田区南千束2丁目 洗足池図書館前

明治24年(1891)に建てられた別邸。
今は洗足軒のあった所は大田区立大森第六中学校になっています。
  勝海舟別邸跡
 勝海舟(1823〜99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。


鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
 その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治24年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
   池のもに 月影清き今宵しも
            うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
   うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
            秋はにしきを織りいだすらむ
明治32年(1899年)77歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
平成十一年三月
 勝海舟没後百年を記念して  社団法人 洗足風致協会

      
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勝海舟夫妻の墓
 2010年8月15日撮影
所在地:大田区南千束2-14-5 洗足池公園内

「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所が洗足池公園の一角にあります。

当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻のたみさんも合祀されています。右が海舟、左がたみさんで、勝海舟室と彫られています。

最初一人だったのは、たみさんが「お墓は旦那と別で!」と言ったからのようです。英雄色を好むでお妾さんと同居させられたり生前は大変苦労したので・・・、でしょうか。 

田区文化財
 勝 海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)威臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
 維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟、山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
 洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
 別荘千束軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
 千束村の別墅に
          楓樹数株を植ゑて
 うゑをかば よしや人こそ 訪はずとも
    秋はにしきを 織りいだすらむ
 染めいづる 此の山かげの 紅葉は
    残す心の にしきとも見よ
                  (飛川歌集より)
昭和49年2月2日指定 大田区教育委員会

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 勝海舟銅像
  2010年1月23日撮影
所在地:墨田区吾妻橋1-23-20
         墨田区役所前「うるおい広場」

隅田川を見下ろす広場に立つこの勝海舟像は、江戸城を無血開城して戦禍から救い、今日の東京の発展の礎となった勝海舟の功績を顕彰するため、有志が寄贈したもの。

区役所内には”勝海舟コーナー”があるそうです。
建立の記

勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。

海舟生誕180年
平成15年(2003年)7月21日(海の日)
             墨田区長 山崎昇
 
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   2011年3月31日作成 
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