坂本龍馬・東京の史跡
坂本龍馬関係の史跡は、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響で説明板が増えました。
とはいえ、高知なら桂浜や生家跡、京都なら龍馬のお墓や寺田屋・近江屋跡、長崎なら亀山社中といった所があるのですが、東京の史跡は、正直地味なものばかり。
龍馬が江戸にいたのは修行のために遊学した若い頃が主なのでしょうがないかもしれません。

私がこれまでに見た、龍馬に関連した史跡は以下の通りです。
 
土佐藩築地邸跡
千葉定吉道場跡
土佐藩・鮫洲抱(かかえ)屋敷跡/土佐藩・浜川砲台跡
坂本龍馬像
佐久間象山塾跡
千葉周作玄武館跡
勝海舟邸跡  
   
土佐藩築地邸跡
 2011年1月14日撮影
所在地:中央区銀座1丁目1〜6番、
           同2丁目1・6〜9番地域

若き龍馬が江戸へ遊学した時、寄宿した土佐藩中屋敷の跡。現在は中央区区役所となっています。

「土佐藩築地邸跡
 所在地 中央区銀座1丁目1〜6番、同2丁目1・6〜9番地域
 この地は、江戸時代前期に埋立てられ、武家地や町人地となりました。文政9年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。
 土佐藩は初代山内一豊から16代豊範まで続きました。幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は15代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主でした。
 豊信は、安政5年(1858)の条約勅許や将軍の継嗣問題において、一橋慶喜(後の15代将軍)を擁立する一橋派に協力しましたが、家茂(後の14代将軍)を推す大老井伊直弼に敗北し、豊信は藩主を退きました。この後、井伊直弼が暗殺されるなど、政情は混乱していきます。そのような中で、豊信率いる土佐藩は、幕府に大政奉還を働きかけてこれを実現し、後の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、薩摩藩、長州藩と並んで明治維新の先頭に立っていました。
 なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場(現銀座1丁目、京橋公園辺り)に通っていました。
また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政3年(1856)から同5年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲2丁目・京橋2丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。
平成22年3月 中央区教育委員会」
   
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千葉定吉道場跡
  2010年6月27日撮影
 所在地:中央区八重洲2丁目8番先

嘉永6年(1853年)剣術修行のため江戸へ遊学した龍馬は、北辰一刀流の桶町千葉道場に入門しました。

鍛冶橋通りと柳通りの交差点付近に説明板があります。

 千葉定吉道場跡
   所在地 中央区八重洲2丁目8番先
千葉定吉(?〜1879)は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手として知られています。
 千葉周作は、文政5年(1822)に道場を品川町(現在の日本橋室町一丁目のうち)に開き、その後、お玉ヶ池(現在の千代田区岩本町付近)に移転をしました。玄武館と名付けられたこの道場は、江戸三大道場の1つに数えられるほどの隆盛を極めました。
 定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らもこの地付近に「小千葉道場」などと通称される道場を開きました。
 定吉の名前は、嘉永6年(1853)12月改正の絵図には新材木町(現日本橋堀留町1丁目のうち)に、嘉永7年正月改正の絵図には狩野屋敷と呼ばれていた(幕府奥絵師鍛冶橋狩野家の屋敷に由来)この地域に確認することができます。
 嘉永6年、剣術修行のために江戸へ出てきた土佐藩士坂本龍馬(1835〜1867)は、定吉の門に入ったとされています。この時定吉は、鳥取藩池田家に仕官していたため、龍馬は定吉の息子千葉重太郎のもとで修行に励んだとも考えられています。また、安政3年(1856)に江戸へ再出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政5年正月には定吉から「北辰一刀流長刀兵法」の目録を伝授されました。
平成22年3月 中央区教育委員会
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土佐藩・鮫洲抱(かかえ)屋敷跡/土佐藩・浜川砲台跡
 2010年11月6日撮影
所在地:品川区東大井2丁目

品川区の勝島運河の突き当たり、立会川の河口に、浜川砲台の石垣石があります。

嘉永6年(1853年)6月、黒船が来航した時、龍馬も警備陣に加わっていました。
 土佐藩・鮫洲抱(かかえ)屋敷跡
 土佐藩・浜川砲台跡
               所在地 品川区東大井2丁目
 浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷であった。幕府への「指出」によると869坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり買入れ、借用していたものである。)
 ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。
 ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。
 砂浜のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2300坪に拡大させている。砲台は8門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所としてこの砲台に配置されていた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街の道路であり、その距離、約200メートルである。
 若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。【若き龍馬の足音】

 近くの東京都下水道局の立会川水質改善の実験をしていて、その壁面にも龍馬が描かれていました。
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坂本龍馬像
 2011年1月3日撮影
所在地:品川区立会川駅前

ブロンズ製坂本龍馬像。

2010年11月13日までは強化プラスチック製でしたが、14日からブロンズになりました。
旧龍馬像が高知・桂浜の龍馬像をもとに作られていて「30歳前後」だったのに対し、新しいブロンズ像は龍馬が立会川近くの海岸警護に当たったと言われる黒船来航当時に合わせて10歳ほど若返り「二十歳の龍馬像」とのこと。
 プラスチック製の旧龍馬像は土佐藩の下屋敷跡にある区立浜川中学校に移動しました。
   
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 佐久間象山塾跡
 2011年1月14日撮影
 所在地:中央区銀座6丁目15番地域

嘉永6年(1853年)江戸に遊学して剣術修行に励む一方、軍学家・思想家の佐久間象山の私塾に入学しました。
 佐久間象山塾跡
 所在地 中央区銀座6丁目15番地域
 この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃国(現在の長野県)松代藩士佐久間象山(1811〜1864)の私塾がありました。
 象山は初め儒学を修め、天保10年(1839)神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。
 後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永4年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町5丁目(現在地付近)に塾を開きました。嘉永6年改正の絵図によると、「狩野勝川」(幕府奥絵師木挽町狩野家の画塾)と向かい合う場所に「佐久間修理」(象山)の名が見られます。この塾は20坪程の規模で、常時30〜40人が学んでいたといいます。
 その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永6年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である12月1日に象山に入門しました。
 木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永7年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命ぜられて塾も閉鎖されました。
平成22年3月 中央区教育委員会
 
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 千葉周作玄武館跡
 2010年6月3日撮影
所在地:千代田区神田東松下町23

安政3年(1856年)9月龍馬は再び修行のため築地土佐藩邸中屋敷に寄宿し、桶町千葉道場出修行するととともに玄武館でも一時期修行しました。

右側にある説明板には
「千葉周作玄武館跡
 東條一堂の瑶池塾跡
千葉周作はここに玄武館を開いて、北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政四年東條一堂は瑶池塾を碑たいて諸生に儒教と詩文を教授した。
千代田区」
と書かれています。

左側にある「右文尚武」の碑は、東條一堂と千葉周作を讃える碑です。
千葉周作玄武館跡は、昭和通りと靖国通りの交差点の南西にある交番の横の一八通りを数十メートル行ったところにあります。
うっかりすると通りすぎてしまいますが、廃校になった学校跡地にあり、
「右文尚武」の碑をご覧に方はご自由にお入りください。扉は閉めておいてください。千代田区」
と中を見ることができます。(2010年6月時点)、
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勝海舟邸跡
2009年5月3日撮影
所在地:港区赤坂6-10-39

勝海舟が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧邸跡。
 文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせたのもこの場所です。
 
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   2011年3月30日作成 
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