時の鐘
 江戸時代最初の時の鐘は、江戸城西の丸で撞かれていた城鐘でした。しかし御座の近くで差し障りがあるので、二代将軍秀忠の時に太鼓に替え、鐘は日本橋石町に鐘楼を作って移設しました。
 そして石町の「時の鐘」を鐘役が鳴らして時刻を知らせるようになり、その後の江戸の拡大にともなって「時の鐘」も増えて、本石町のほかに上野山内、浅草寺、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺、赤坂田町などにも建てられています。
 現在でも、本石町(十思公園)・浅草(浅草寺)・上野(上野公園)・四ツ谷(新宿天龍寺)などに時の鐘が残っていて、
浅草、上野の時の鐘は今でも毎日撞かれているそうです。  
     
本石町
場所 中央区日本橋小伝馬町5 十思公園
撮影日 2010年5月30日/2010年7月24日
   江戸時代、本石町3丁目へ設置されていた石町の時の鐘が、中央区日本橋小伝馬町の十思公園にあります。
 石町の時の鐘は、二代将軍秀忠の時、江戸城内西の丸から日本橋石町に移設されたもので、現在残っている宝永8年(1711)に製作された時の鐘です。

 近くにあった伝馬町牢屋敷での囚人の処刑も本石町の鐘を合図に執行されましたが、処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名”情けの鐘”とも言い伝えられているそうです。
十思公園にある
説明板
の文章 
  「東京都指定有形文化財 
 銅鐘 石町時の鐘
 所在地 中央区日本橋小伝馬町5 十思公園
江戸で最初の時の鐘は、本石町3丁目(現在の本石町4丁目・室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
 石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
 本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711)に鋳造されたことがわかります。
 『石町は江戸を寝せたり起こしたり』と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
平成17年年3月 中央区教育委員会」
鐘撞堂跡
にある
説明板
の文章 
  「石町時の鐘 鐘撞堂跡
所在地 日本橋室町4丁目5番/本町4丁目2番地域
時の鐘は、江戸時代に本石町3丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役を任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永8年(1711)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町5-2)に移されて残っています。
 鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町3丁目(現日本橋室町4丁目・日本橋本町4丁目)辺りにあり、本通りから本石町3丁目をはいって鐘撞堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園内までの道が平成14年3月に「時の鐘通り」と命名されました。
 近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘は オランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
平成15年3月 中央区教育委員会」
 
十思公園の鐘楼
十思公園の説明板
 
鐘撞堂跡にある説明板付近

鐘撞堂跡にある説明板 
     
浅草
場所  台東区浅草2丁目3 浅草寺
 撮影日 2010年12月18日
   浅草寺宝蔵門の東南側、仲見世の裏手にある弁天神社の境内に浅草寺の時の鐘はあります。
鐘楼は東京大空襲で焼け落ちたため昭和25年に再建されたものですが、鐘は元禄5年(1692年)に鋳造されたもので、現在でも午前6時と大晦日の除夜の鐘に使われているそうです。
 説明板
の文章 
 「時の鐘(浅草寺)
 台東区浅草2丁目3番
江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、9箇所でも時を知らせた。
 鐘の大きさは、高さ2.12メートル、直径1.52メートル。
 鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、5代将軍綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備前守成貞が黄金200両
を寄進した。
 この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句、

 花の雲 鐘は上野か 浅草か
は、あまりにも著名である。
 昭和20年3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年5月再建されたものである。
平成11年3月 台東区教育委員会」
 
     
   
上野
 場所 台東区上野公園4番
 撮影日 2011年4月13日
   上野・寛永寺の時の鐘は、現在は上野公園内の「上野静養軒」へ通じる道の左側にあります。
 芭蕉が
 花の雲 鐘は上野か 浅草か
詠んだそうですが、 深川の芭蕉庵から上野と浅草までは同じくらい離れているので、満開の桜でも見ながら聞こえてきた鐘の音は、どちらの鐘なのだろうかと思ったのでしょうか。

 また、現在でも時の鐘に隣接している「韻松亭」の方が朝夕6時と、正午に撞いているそうです。

 説明板
の文章
 「時の鐘
 台東区上野公園4番
 
 花の雲 鐘は上野か 浅草か
 
 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。
 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったとい
う。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。
 初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主 柏木好古」とあったという。その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には、「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
 現在も鐘楼を守る人によって、朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。
 なお、平成8年6月、環境省の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。
平成8年7月 台東区教育委員会」
   
     
本所横川
 場所 墨田区緑4丁目22番
 撮影日 2011年5月30日
  JR総武線、錦糸町駅から西へ500mほど行くと大横川親水公園を横切る江東橋に出ます。
江東橋から親水公園に沿って南へ200mほど進んだ所に鐘楼の形をしたモニュメントがあります。
その西側に「時の鐘跡」の説明板が立っています。

 江戸時代、この付近は東西に流れる堅川、南北に流れる大横川の交叉点になっていて、大横川に北辻橋と南辻橋、堅川に新辻橋が架かっていましたが、北辻橋西川の大横川河岸に時の鐘の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきました。
その後、北辻橋が撞木橋を正式名称とするようになったらしく、このモニュメントはその撞木橋が撤去された後に、記念に立てられたもののようです。

ちなみに説明板の隣の建物の名前は時の鐘から採ったのでしょうか「BELL PALACE」でした。
 説明板
の文章
  「時の鐘跡
 住所 墨田区緑4丁目22番
大横川の左岸には時の鐘を撞く鐘楼がありました。
 江戸時代、時を知らせる手段は鐘を撞くこと以外にはありませんでした。そのため、江戸城で打ち出され太鼓の音(のちに日本橋本石町の鐘楼の鐘)を、周辺の鐘楼が鐘の音に換えて打ち出し、順次この鐘の音を引き継いで江戸の隅々へと時を知らせていきました。
 従って、江戸城と周辺の町内とでは、少し時間にずれが生じるのが普通でした。
 また、当時は不定時法を採用していたことから、季節に応じて時間の長さが変化しました。従って夜明けは常に明け六ツ(六時)、日没は常に暮れ六ツ(六時)だったのです。
 日本橋本石町の鐘の音は、ここ本所の鐘楼に伝えられました。鐘楼の近くには時鐘屋敷(緑4丁目10番・21番の境)があり、町会で選ばれた撞き番の人が待機していたそうです。
平成19年3月 墨田区教育委員会」
 
説明板

切絵図で「時鐘」と書かれた時鐘屋敷?
 
モニュメント 

モニュメント
 
周辺 

”BELL PALACE"
     
     
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