小名木川を歩く2
小名木川橋〜大富橋 
2011年7月01日
前回の続き、小名木川橋から。曇り空ながら蒸し暑くいやな空模様。

小名木川橋から西側の景色。左端の杭にサギが止まっていました。
川沿いには歩けないので、北側を迂回して次の小松橋へ向かいます。
 小松橋。関東大震災後の昭和5年に架橋された復興橋梁です。
小松橋の西側には扇橋閘門があります。
この閘門はパナマ運河と同じ方式で、水位差を調整して船舶の航行を可能にするための施設です。
「小名木川旧護岸」モニュメントの説明にもありましたが、江東区の東側は東京湾の満潮水位以下(メートル地帯)となっており、この地域を水害から守るため、閘門西側水位が東京湾の満干の影響を受けて2m近く変化しても東側では水位を低く保つようになっています。

水門横に扇橋河川公園があるので(上写真の右側、柵で囲われてた所)そちらへ行ってみました。

公園とはいいつつ草ぼうぼうですが、柵越しに
見た東側ゲート(後扉)
西側ゲート(前扉)
扇橋閘門の西側に架かる新扇橋から。
新扇橋。こちらも小松橋も同じく、昭和4年(1929)に架橋された震災復興橋梁です。 

 また、橋の南詰には「民営機械製粉業発祥の地」碑、北詰めには、「猿江船改番所跡」の説明板があります。

 「民営機械製粉業発祥の地」碑
「民営機械製粉業発祥の地
明治12(1879)年、明治を代表する実業家雨宮敬次郎は, 水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰晴社(たいせいしゃ)」を創設しました。
 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。
 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治29年に日本製粉株式会社に改組されました。また、小名木川沿岸には明治30年台に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰晴社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。
 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(同12年)の二つがありましたが, これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました。     江東区」

 「猿江船改番所跡」の説明板
「猿江船改番所跡(さるえふなあらためばんしょあと) (猿江1−1付近)
猿江船改番所は、小名木川と大横川が交差する所の猿江側に、元禄から享保期(1688〜1736)頃に設定されました。
 小名木川は、江戸への物資輸送の重要な交通路であったため、とくに江戸の町を守る必要上、江戸時代の初め、万年橋北岸に通船改めの番書が置かれました。その後、中川口へ移転し、中川船番書として利根川水系や房総方面と江戸の間を航行する川船を取り締まっていました。猿江船改番所は中川番所とは別に、川船行政を担当する川船改役の出先機関として設置されたものです。
 幕府や諸藩の荷物を運搬し、えどへ出入りする船には川船改役によって極印が打たれ、年貢・役銀が課せられていました。そのため新たに船を造ったり、売買によって持ち主が替わった場合などは届け出が義務づけられてました。猿江船改番所の仕事は船稼を統制することにあり、こうした年貢・役銀を徴収したり川船年貢手形や極印の検査を行っていました。
 この他江戸市中では、浅草橋場(台東区)に同様の番所が設置されていました。
平成六年三月  江東教育委員会」
新扇橋からの西側の眺め。
すぐ先で大横川が交差しています。
川の南側、北側どちらも川沿いを歩くことができるようですが、今回は南側を歩くことにしました。
小名木川と大横川の交差点。

一旦大横川沿いに南へ向かい、橋を渡って、合流点の南西角へ。
手前から奥に流れているのが大横川。東京スカイツリーも大横川の先に見えます。
 大横川を北に進むと途中から大横川親水公園となり、北十間川歩きの際に寄った、スカイツリーの西側、船の形をした建物のあったところに出ます。
新高橋。この橋も小松橋と同じく昭和5年架橋の震災復興橋梁の一つです。またこの道を南へ500mほど行くと、東京都現代美術館や木場公園の東側を通ります。
橋の下をくぐって西へ。
大富橋。この橋は平成8年(1996)に架けられた新しい橋ですが、その前には昭和5年(1930)架橋の震災復興橋梁があったそうです。
大富橋の西側。屋形船やボートが停泊しています。

両岸とも歩くことができますが、このまま小名木川の南側を進みます。
   
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   2011年7月18日作成
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