大横川を歩く2
JR総武線高架〜三石橋 
2011年7月24日、26日
JR総武線の高架下を抜けると公園があり、すぐに江東橋に出ます。
江東橋から北側の眺め。
江東橋の南側はテニスコートがあります。
さらにその先はゲートボールでのするような広場あり、その先の時の鐘の形をした撞木橋跡碑があるところで、大横川親水公園は終わります。
撞木橋跡碑の所から見た南側。首都高小松川線の下を流れる竪川との交差点から大横川が地表に出ます。

東側から回り込んで、大横川の流れへ近づくことに。
交差部近くの公園から。大横川が地上に現れるところ。奥へ流れているのは竪川。
竪川に架かる新辻橋から。上は首都高小松川線。竪川も東側はここまで暗渠になっています。
7/23のタモリ倶楽部「Tokyo運河Walkerを作ろう」では、この先で竪川に首都高速7号小松川線の橋脚が隅田川まで1.7km直線で続く様子を「下町のパルテノン神殿」と名付けていました。
大横川が地上に出て最初に架かっている南辻橋。南辻橋から見た竪川と大横川との交差点。
南辻橋から見た竪川と大横川との交差点。
南辻橋から見た大横川の南側。ここから川岸を歩けるようになるので、西岸を歩くことにしました。
菊柳橋。橋のたもとで釣りをしている人がいました。
ここから両岸は桜並木となります。
菊川橋。
菊川橋の上から。桜の季節はなかなかよさそうな雰囲気です。

菊川橋が墨田区と江東区の境界になる(厳密には西岸は150mほどまだ墨田区が続きますが)こともあり、第1回目はここまでとしました。。
橋の西側にある都営新宿線菊川駅ヘ向かう途中、三つ目通りとの交差点の少し手前には長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡のモニュメントが立っていました。
「長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡
 この一体は、江戸時代に火付盗賊改役・長谷川平蔵や江戸町奉行・遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)が暮らした屋敷跡です。長谷川家は家禄400石の旗本でした。平蔵宣以19歳の明和元年(1764)父平蔵宣雄の屋敷替えにより、築地から本所三之橋通り菊川の1200坪余りの屋敷へ移りました。宣以は、火付盗賊改役として通例2,3年の任期のところ、没するまで8年に及び在職し、盗賊逮捕に実績をあげました。池波正太郎の「鬼平犯科帳」は、その情景を彷彿とさせます。また、職業訓練をもって社会復帰を目的とする石川島の人足寄場を提案、実現させました。
 寛政7年(1795)病のために、50歳で本所の屋敷で没しました。その後、弘化3年(1846)に、孫の4代目平蔵の屋敷替えにより、江戸町奉行遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)の下屋敷になりました。
 遠山金四郎は江戸北町奉行に天保11年(1840)に任命されました。金四郎は天保14年(1843)奉行を罷免されますが、老中水野忠邦失脚後の弘化2年(1845)3月、再び南町奉行として任命されました。
以後、名奉行の名を残す評判を集め、「遠山の金さん」として浪曲や講談に登場するほど人々にも慕われました。
天保改革で弾圧を受けた歌舞伎を浅草猿若町に再生したことは、金四郎の尽力によると伝えられています。 
この地は江戸の町人感覚にも通じ、治安に貢献した二人のゆかりの土地です。」

   
第2回目。

引き続き大横川両岸は桜並木となっています。この季節、地味な絵柄ですが、春ならきっと両岸桜で華やかでしょう。
今回は西岸を進むことに。
前回最後に歩いた菊柳橋−菊川橋間と同じような景色が続きます。
猿江橋。
橋の西詰には、東京大空襲の犠牲となったこの付近の町民の霊を慰めるために建立された「八百霊地蔵尊」が祀られていました。
猿江橋の南で、東西に流れる小名木川と交差します。
小名木川に架かる新高橋を渡って”交差点”の南側へ。
十字路の南西の角から見た東京スカイツリー。7月初めに小名木川を歩いた時にも撮りましたが、あのときあった大きな工事用タワークレーンも撤去され小さなものに。
十字路の南側に架かかっている扇橋。
続いて亥之堀橋。
橋名は、大横川が小名木川から南が元禄8年(1695)亥年に開削されたため亥の堀とも呼ばれていたことにちなんでいます。
ここから西岸は歩けなくなったので東側を進みました。
三石橋。
橋を通る道は美術館通りで、西に行けば東京都現代美術館があります。
   
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   2011年9月2日作成
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