隅田川を歩く11
駒形橋〜厩橋〜蔵前橋
2011年4月17日
 駒形橋からは、再び両岸ともテラスとなっていますが、右岸(台東区)側を進むことにしました。
 
 背後でウォーターバイクの集団がやってくる中、右端にいるおじさんが餌でもやったのでしょうか、川岸にカモメが集まっていました。
 (カモメ「ん?なんか用?」)
 すぐに厩橋に到着。吾妻橋−駒形橋−厩橋−蔵前橋の間は上流に比べていずれも橋の間隔が近いです。
 厩橋は、かってこの付近にあった「御厩河岸」にちなんで付けられた橋名で、関東大震災後の復興計画により架橋された現在の橋には電柱などに馬のるレリーフなどが施されています。

 また近くには「御厩の渡し」もありました。広重もこの付近を名所江戸百景 第105景「御厩河岸」で描いています。
 馬のレリーフ
 厩橋東詰交差点から
 厩橋下流、右岸(台東区)側はまだテラスになっていません。
 テラスになっている左岸(墨田区)側を進みます。
厩橋から蔵前橋の間のテラスの防護柵は「相撲」と「屋形舟」模様になっています。
 蔵前橋。右岸(台東区)の北側には都下水道局蔵前庁舎、南側にはNTTのビルが建っています。

 蔵前橋も関東大震災の復興計画により架橋された橋です。それ以前は「富士見の渡し」があった場所でした。
 1954年(昭和29年)〜1984年(昭和59年)まで、蔵前国技館があったため、欄干には力士のレリーフなどが付けられています。
 
 
 江戸時代、この付近には幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫、浅草御蔵がありました。

 また、蔵前橋から約百メートル川下の浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」と呼ばれる松があり、広重も名所江戸百景 第61景「浅草川首尾の松御厩河岸」で描いています。

名称の由来については、
 1)寛永年間(1624〜43)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称した。
 2)吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上がり下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
 3)首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称した。
と諸説あるようです。
 
浅草南部商工観光協会が建立した「浅草御蔵跡」碑が橋の西詰にあります。
西詰の南側にやはり浅草南部商工観光協会が建立した「首尾の松」碑と何代目かの松が植わっています。
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   2011年4月19日作成
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