隅田川を歩く13
両国橋〜両国大橋(両国Jnc)〜新大橋
2011年4月24日
 両国橋東詰。
 両国橋から見た下流側。首都高の橋は両国大橋。
両国大橋の上は、両国ジャンクション(6号向島線江戸橋JCT方面⇔6号向島線堀切JCT方面・7号小松川線 )です。
両岸ともテラスができているので歩けますが、右岸(中央区側)を選択しました。

 妙に凝った階段とその下の施設といい、両国橋から首都高の下までの区間の右岸は、ちょっと他とは違った雰囲気です。
両国ジャンクション。左の水色の水門は竪川水門です。
竪川は旧中川と隅田川を東西に結ぶ運河で、全区間上空を首都高速7号小松川線に覆われています。しかしかなり高い位置に高架があるので明るく、途中からは東側はほとんどが暗渠となって公園として利用されています。
両国大橋下。
南千住の水城大橋手前から隅田川左岸(東)側にずっと平行して走っていた首都高6号線はようやくここで、左岸から右岸に移ります。
両国大橋を過ぎると新大橋の全景が見えてきます。また、左岸はしばらく墨田区が続きましたが、両国大橋と新大橋の間で江東区となります。
新大橋の手前、右岸には中央区で最大の広さの浜町公園があり、テラスと繋がっています。
ここには江戸時代、熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、熊本藩主・細川斉護によった建てられた加藤清正を祀る清正公寺が現在も建っています。
 新大橋。
 新大橋が最初に架橋されたのは元禄6年(1693年)で、「大橋」とよばれた両国橋に続く隅田川3番目の橋として「新大橋」と名づけらました。当時の橋の位置は現在の位置よりも少し下流側でした。
広重も名所江戸百景で第58景「大はしあたけの夕立」で描かれています。
 新大橋は江戸時代、何度も破損、流出、焼落を繰り返ましたが、明治18年(1885年)に西洋式の木橋として架け替えられ、明治45年(1912年)には鉄橋として現在の位置に架橋、その後昭和52年現在の橋に架け替えられるまで修理補強を行いながら使われていました。現在も、愛知県犬山市の明治村に約25mほどの部分が移築されて保存されています。
   
 新大橋は関東大震災の際に唯一被災することなく避難の道として多数の人命を救ったことから、「人助け橋(お助け橋)」と称されました、橋の西詰にある交番の裏に「大震火災記念碑」と「人助け橋の由来碑」があります。
 東詰の公園にある旧新大橋の橋柱.
  やはり東詰の公園に建っている、この付近に幕府艦船の格納所があったことを示す「御船蔵跡」の石柱。
 新大橋西詰からの下流側の眺め。隅田川が大きく右に曲がっていき、その先には清洲橋が見えます。
両岸ともテラスがありますが、このまま右岸を進むことにしました。
前へ  <==> 次へ
   2011年5月4日作成
inserted by FC2 system