隅田川を歩く4
石神井川合流地点〜小台橋〜尾久橋 
2011年1月30日
前回の続き、隅田川右岸の石神井川が合流する地点からスタートです。
しばらくは隅田川沿いには歩けません。
道なりに隅田川に近づくように進み、行き止まりに突き当たったりしながらも、なんとか隅田川テラスへ。
写真左寄りにあるのは「梶原の渡船場跡」の説明板。
「梶原の渡船場跡
 北区堀船4-2 北区立白山堀公園
 この奥の隅田川沿いには、明治・大正・昭和にかけて、対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場がありました。
 明治41年(1908)、現在のキリンビール東京工場の敷地に下野紡績の工場ができ、対岸からも人々が工場へ通勤するようになりました。そこで、両岸の梶原・宮城地区の住民有志が出資してつくった船の発着場が、この梶原の渡船場です。
 子供の頃から父親とともに、船頭をしていた方の話によると、最初、運賃は大人一銭・子供五厘・荷車一銭五厘・自転車一銭だったそうで、この渡しができたことで、地域の住民の交通の便が非常に良くなりました。また、荷車という運賃があるように、駒込にあった市場に野菜を出すための交通路としても利用され、毎日15台以上が隅田川を船で往復していたそうです。
 第2次世界大戦中には、足立方面などに軍需工場が多くなり、工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混雑したそうですが、交通手段の整備とともに、渡しが使われることも少なくなり、昭和36年(1961), その姿を消しました。
平成8年3月  東京都北区教育委員会」

「現在のキリンビール東京工場の敷地」とありますが、今は読売新聞東京北工場、日本製紙物流堀船営業所、日刊スポーツ印刷社王子工場が建ち、その前がテラスとなっていました。
川上側。前回堤防が邪魔で撮れなかった首都高速中央環状線橋梁です。
川下側。
テラスが終わると堤防に。ここは柵越しに隅田川の川面も見えます。
あらかわ遊園の観覧車が見えてきました。
あらかわ遊園の手前が北区と荒川区の区境です。
荒川区立あらかわ遊園。
あらかわ遊園の前もテラスとなっています。黄緑色の橋は小台橋。

テラスの柵には”かっぱ”が。
 
   
さらに堤防沿いに進んでいくとまもなく小台橋に到着しました。


小台橋は新豊橋、豊島橋、と同様アーチ形状の橋ですが、黄緑色をしているので目立ちます。
創架は昭和 8年(1933)、関東大震災後の都市計画事業により架橋されました。いわゆる”震災復興橋梁”ではありませんが、復興都市計画による架設されました。
原在の小台橋は、旧橋の老朽化に伴なって1992年(平成4年)架け替えられたものです。

架橋前は付近に「小台の渡し(尾久の渡しとも称された)」があり、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用したそうです。
小台橋上から見た下流方向。尾久橋と日暮里・舎人(とねり)ライナーの橋梁が見えます。
尾久橋を目指して右岸を堤防沿いに下流へ。
 このまま歩いて大丈夫か?と思うような道を進んでいきます。
結局カミソリ堤防に阻まれ、川面を1度も見ないまま尾久橋に到着しました。
尾久橋の袂にも渡船の説明板が、橋へ上がる階段の脇にありました。
「これより北に約50メートル
熊野の渡し
東尾久8丁目と足立区小台1丁目を結んだこの渡しは、昭和25年3月まで近隣の住民に親しまれ利用されていた。
荒川区教育委員会」
Wikipediaによると大正中期から昭和にかけて利用されていた渡し船のようです。
尾久橋。
1932年(昭和7年)荒川放水路の開削時に創架されました。現在の橋は交通量の増大と老朽化が進んだため1968年(昭和43年)に架け替えられたものです。
 右側は日暮里・舎人ライナー隅田川橋梁。
新豊橋、豊島橋、小台橋とアーチ型の橋だったのが、尾久橋は面白味のない普通の橋です。
下流の左岸が少しだけテラスになっていたので(上写真の右に見えている所)、橋を渡って反対側へ渡りました。

出光興産油槽所の輸送船が荷降しをする場所のようです。
対岸(右岸)の先、尾久の原公園付近にはテラスが見えます。
日暮里・舎人ライナー隅田川橋梁と尾久橋。
太陽が雲に隠れてしまって風も冷たく川沿いを歩き続けるには厳しかったので今回はここまで。

 隅田川のそぐそばにある足立小台駅から舎人ライナーに乗って帰ることにしました。
 前へ  <==> 次へ
   2011年3月26日作成
inserted by FC2 system