竪川を歩く1
竪川水門〜二之橋 
2011年8月28日
JR両国駅から隅田川テラスへ出て南へ進み、隅田川と竪川の合流域へ。

合流域上の隅田川首都高速7号線と6号線が合流する両国ジャンクション。
竪川水門。

水門近くの階段を上がりテラスを出ると路地を通って竪川へ。
残念ながら竪川沿いに歩道はなく、架かっている橋ごとに竪川の様子を見ることになります。
最初の橋へ向かう途中には看板建築の家もまだ残っていました。裏は竪川。
隅田川に一番近いところに架かる一之橋。
竪川には、開削直後に隅田川に近いほうから順に一之橋から五之橋まで単純に番号を振った橋が架けられ、現在も橋の名称として残っています。
橋のたもとには、両国界隈ではおなじみの高札型説明板。
「一之橋
 幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。
 万治2年(1659)、縦の代表格、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ13間、幅2間半ほどありました。
 竪川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが建ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。
 一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。」
西側 隅田川方向。
現在、竪川の護岸建設に先立ち、河川の土砂掘削工事が行われているようです。
東側。パイプがじゃま。
それにしても高速道路が高いところにあるので、同じように頭上を首都高で覆われた日本橋川に比べると明るいです。

次の塩原橋へは竪川の北側を通って向かうことに。
この付近の首都高橋げたの上部は北側だけ出っ張っています。
平成8年度の首都圏高速道路計画では、両国ジャンクションの東側手前から首都高5号線につながる内環状線という路線が構想されていて、継ぎ足しできるようこのような構造になっているそうです。
ただし、現在は調査を推進するということになっているものの事実上中止らしいですが。
塩原橋。北側たもとにある由来碑によると
「塩原橋は関東大震災の復興事業の一つとして、昭和3年11月に架けられました。当時は木橋でしたが、昭和29年3月、現在の鋼桁橋に架け替えられたものです。
 橋名は江戸時代の末「本所には過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」と謳われた塩原太助がこの辺りに住んでいたことから、それに因んで付けられたものです。
 太助は上州(群馬県)沼田から江戸に出て薪炭商人として成功した人ですが、その立志伝は明治の初め、南二葉町(亀沢3丁目)に住んでいた三遊亭円朝によって人情話に仕立てられ、その後浪花節や演劇にもなりました。歌舞伎の「塩原多助一代記」は明治25年に初演され、愛馬の別れで大変な評判をとったそうです。
 天明元年(1781)当時、本所相生町(両国3丁目)に住んでいた太助が、亀戸天神に寄進した燈籠は今も境内に残っています。
平成4年3月墨田区」
また、南側には「烏亭 焉馬(うてい えんば)居住の地」の説明板も。長いので説明文は省略。
烏亭 焉馬は江戸時代後期の戯作者・浄瑠璃作家で、落語の中興の祖とも言われる人だそうです。
塩原橋からの眺め。
東側。
以前のタモリ倶楽部「Tokyo運河Walkerを作ろう」では、首都高速7号小松川線の橋脚が隅田川まで1.7km直線で続く様子を「下町のパルテノン神殿」と名付けていました。(のときは東側から西側を見ていましたが。)
千歳橋
西側。なんか浮いています^^;;
東側。ボートが停泊していますが、どこから乗り込んでいるのやら。
竪川の北側の道を千歳橋から次の二之橋へ向かう途中には、桐の博物館がありました。墨田区内に20箇所以上ある「小さな博物館」の1つです。
二之橋。
二之橋のたもとにある高札型説明板によると
「江戸の町:二之橋
万治2年(1659)、竪川が開削されると5つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。その二ツ目の橋で、長さ10間(18メートル)、幅3間(5.4メートル)ほどありました。
 池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「二ツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勒寺門前のお熊婆のいる茶屋「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。
 現在の橋は平成10年(1998)に架橋されたものです。」
とのこと。
さらに北詰にあるもう一つの説明板には
「鬼平情景:軍鶏なべ屋「五鉄」
 小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所二ツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「二つ目橋の角地で南側は竪川」とあるように、このあたりだと推定されます。
 鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。
 その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。」
「五鉄」は鬼平犯科帳の中で、いちばん多く登場している料理屋ではないでしょうか。
ちなみに「五鉄」のモデルになったお店は池波正太郎さんもよく訪れたという、緑1丁目にある「鳥料理・かど家」だったようです。
竪川を歩くトップへ  <==> 次へ 
   2011年10月25日作成
inserted by FC2 system